今や世界が認める。岡山デニム
岡山の干拓の歴史
岡山県南の歴史は、干拓とともにあるといっていいと思います。岡山の三大河川、西から高梁川、旭川、吉井川。
その川が運ぶ堆積により、奈良時代、平安時代に海であったところが、浅瀬になり、領土を増やそうと行われた干拓によって、次々に陸地になり、それまで島であったところが、陸続きになっていったのです。
干拓の目的として、やはり農耕地を増やすことなのですが、塩分濃度の高い干拓地にあっては、塩田業はもちろん行われるものの、稲作には向かず、塩に強い、イグサと綿栽培が必然的に営まれるようになりました。
綿栽培が盛んになると、その綿を糸とするための紡績、それを布にする織物、また、織物を着物などの製品として作り出す縫製業が必然的に栄えていきます。
軍服
縫製の歴史
そして、真田紐、小倉織り、足袋の製造を経て、明治時代に入り、軍服を作ることになっていきます。
そして戦後、GHQの放出品の影響により、デニムパンツ、つまりGパンが流行を支配していくことになります。
明治大正昭和、軍服から始まった縫製は、詰襟の学生服、作業服に姿を変えていきます。学生服にしてもセーラー服にしても、軍服からの派生系であったのです。
そうした軍服作りの技術を持った岡山の縫製会社が学生服を主体として、縫製の中心として伸びていった地域が児島地域です。
繊維のまちと呼ばれる児島には、学生服全盛のおり、縫製に従事する女工さんで溢れかえっていました。作る人を集め盛大に事業を展開したのです。
その後、Jeansを日本でも作っていくことになります。
岡山デニム
そうした中で、児島の企業が独自ブランドのJeansを作成販売し、紆余曲折を経て、今日の岡山デニムを築いていくことになります。
日本において戦後、デニムを輸入し、Gパンを作っていきますが、その縫製下請けを、児島の業者が請負ってやっていきます。そこにおける国産Jeansの先駆けは?という議論はありますが、それについての結論については、私ごとき素人が結論を言えるものではなく、避けたいと思います。
その後、岡山等の業者が、デニム生地を独自で生産していき、岡山の業者が、Jeansを地元において、生地から生産し縫製販売することができるようになったのです。
デニムについては、縦織、先染、綾織という定義があるのですが、染め織物技術にあって、現在の日本を牽引しているのは、備後地区である福山、井原市内の業者さんたちです。
戦後の日本のファッションであるGパンを含めるデニム産業を発展させていったのは、岡山の業者さんが頑張った証であり、それが世界で認められる今の岡山デニムの地位を築いたことに間違いはないのです。